撫子色のプロポーズ
死者の国1st後・日常と過去回想 ※ジャンエレ
ふつふつ、と鍋が煮える音と蓋が小刻みに揺れる音が静かに響く部屋の中。鍋蓋を持ち上げてスープの海の底で泳ぐ食材たちをお玉でぐるりとかき混ぜ、上澄みを少しばかり小皿に流し入れる。皿を傾けて中身を一気に含むとミルクのほのかな甘みが口内に広がった。適度に煮込まれた具材の味も十分出ているし、塩加減も申し分ない。吹き上げる蒸気を覆うように蓋を被せ、もうひと煮立ちさせたところで火を止める。
夕食で使った食器は先ほど戸棚へ仕舞い直したし、明日の朝食の下ごしらえはちょうど今終わったところだ。両手を頭の上で組み、背筋を軽く伸ばしたところで壁掛け時計に目を向ける。針はもうじき九時を指し示そうとしているところだった。
この時間ならば……そろそろ来る頃だろうか。
そう考えていた矢先、テーブルの向こうからカチャリとドアノブが回る音が聞こえてきた。
「パパ……。宿題、終わったよ」
音のした方へ体を向けると、スリッパの底で軽い足音を奏でながら愛娘がこちらに向かって歩いてくるところだった。寝巻に着替えているが、長年の相棒――今は彼女の相棒でもあるスクウィークは変わらず一緒だ。ふかふかの胴体を片手でしっかりと抱き、首をやや後ろに傾げながら見上げている彼女の前へ近寄ると、少しばかり身を屈めて頭を軽く撫でる。
「そうか……偉いな、コゼット。今日はもう休もうか」
「うん。いつものお話、聞きたいな……」
「もちろん。丁度終わったから一緒に行こう」
身に着けていたエプロンをするりと外すと手早く畳んで椅子の背もたれに掛け、右手を差し出す。間もなく小さな手でぎゅっと握り返された。自分よりも高い体温を掌越しに感じ、幾分かほっとした気持ちになる。日もすっかり暮れた今、薄暗く染まった部屋の中で灯るランタンのような暖かさだ。
あの不思議な出来事以来、ようやく家族としての距離感で接することができるようになった。輝石祭の当日……行方が分からなくなったときは心臓を氷で掴まれているような感覚が這い回り、見つかるまで気が気ではなかった。
幽霊が出るという噂が流れる屋敷へと飛び込み、その中で出会ったカボチャ頭の奇妙な紳士を思い出す。娘に対する執着を持ち、最初の剣幕に危うく剣先を向けるところだったが、会話が通じる者であったということがせめてもの救いだ。屋敷からの帰路の途中に娘から聞いた話では、彼は夢の中で家族について考える機会をくれたのだという。
あれ以来出会うことはないが……結果的に娘との関係を修復するきっかけになったこともあり、彼には少しだけ感謝している。
今はもう、こうして手を繋いで他愛のない話ができる。お互いどう接して良いのか分からず、少しぎこちなかった頃が遥か遠い昔のようだ。
螺旋状の階段を彼女の歩幅に合わせて上り、右の扉の前で立ち止まる。目的の部屋である寝室だ。空いている手でドアノブを握り、軽く押して部屋の中に入り込む。
枕元の明かりを灯す間に、娘は先にベッドへ上がったようだ。私も布団の端を持ち上げ、少し遅れてベッドにもぐりこむ。枕に頭を預けて彼女の方へ向き直ると、薄明かりの中で深紅の瞳と目が合った。……勿論、我々の間には黒く丸い目をした相棒も同じく横になっており、話が始まるのを静かに待っている。コゼットはよほど待ち遠しいのだろう……今か今かと嬉しそうに揺れる視線を受け、今宵の物語を紡ぎ始めることにした。
「今日はどんなお話にしようか?」
「えっとね……スクウィークが湖で宝物を見つけたときのお話が良いな」
「そうか。あの話は王子様とスクウィークが出会って少し経った頃の話だ……」
騒動の後から、日課として寝る前に物語を話すようになった。日によっていろいろと変わるものの、多くは彼女が大好きな絵本を読み聞かせたり、スクウィークの冒険譚であったり。近頃は母親――エレオノールの昔話についても聞かれることがある。最初のうちは私のことを気遣ってか、おずおずと遠慮がちな問いかけであったが、彼女も内心ずっと興味を持っていたのだろう……容姿や趣味、ちょっとした癖などの些細なことまで、様々な質問を投げかけられることが増えてきた。私としても妻との思い出を少しずつ共有することができて嬉しく感じている。
ただし……【ママはどんな料理が得意だった?】という質問の返答については、非常に頭を悩ませた。何を作っても想像を絶するような味だったよ……とは流石に伝えることができず、今度一緒に彼女が得意だったパンを作ろうか、という約束を取り付けることで事なきを得たのは数日前の話。彼女の料理センスを見事に受け継いだようで、娘にも心配な傾向はあるものの……味に関しては問題ない分、仕上がりの見た目さえ何とかなれば大丈夫なはずだ…………きっと。
そうして様々な物語を語らっては隣で手を繋いで眠りにつき、翌朝にお互い見た夢を話し合う。夢の内容が同じでも違っていても、語り合って共有できるということが何よりも嬉しく、心地よい時間だ。
物語に相応しいよう穏やかな口調で話を進めていると、今夜の聞き手は徐々に眠気に誘われてきたようだ。語りかける所作はそのままに横目で様子を窺うと、だんだんと重くなる瞼を度々擦りながらも一生懸命に耳を傾けていた。話の区切りも良いところだ……次の日のことを考えると、ここらで切り上げた方が良いだろう。
「――めでたし、めでたし。……今日の話はここでおしまいだ。そろそろ寝ようか」
「うん……ありがとう、パパ。おやすみなさい」
「お休み、コゼット。良い夢を」
横を向いて話していた体勢から少しばかり天を仰ぐ形へと向き直り、布団を肩までかけ直してお互いの手を繋ぐ。傍で灯っていた明かりをそっと消し、繋いでいない方の掌を彼女の旋毛から額にかけてゆっくりと往復させた。その感触に忽ち微睡の世界へ沈んでいったようで、数回のうちに規則的な寝息が耳に届き始める。穏やかな表情で眠っているようだから……今日の夢は楽しい出来事が待っているはずだ。
私たちの相棒が無事活躍してくれますように、とぬいぐるみの彼の胸と娘の頬をひと撫でして、自分も眠りにつくこととした。
明日の朝までに、どんな夢が見られるだろうか。
昼下がりの活気豊かな街を通り抜け、神仕としての仕事を終えた帰り道。旧知の仲であり現同僚でもある友人といくつかの話題を交わしながら自宅への帰路を歩いていく。
「例年の通り、今日も訪問者は少なかったな」
「そうだなー。輝石祭も無事終わったことだし、しばらくはゆっくりできそうだな!」
そう話す友人の足取りは軽やかだ。輝石祭を迎えるまでの準備期間もようやく過ぎ去り、一年の中で最も慌ただしい日々に終わりを告げたところなのだから。……とは言え、通常の業務に戻ったとしても多忙なのは変わらずだが、輝石祭が終わった直後は教会を訪れる者が普段と比べてとりわけ少なくなる。祭りの日に輝石を流したことで、多くの人々は自分の心の中に折り合いをつけることができたからなのだろう。
例年は輝石祭を終えた後でも仕事に就く時間は変わらなかったのだが……今年は特別措置が取られたようで、ここ二週間ほどは日が暮れないうちに業務が終わるよう調整されている。輝石祭の慰労も兼ねているのかもしれない。
私自身としても、今年の輝石祭は特別な日となった。夢の中で彼女と向き合い、何年も共に過ごした最愛の人の遺物を砕いて。妻への気持ちに一区切りをつけ、娘とようやく家族として歩み寄ることができたのだから。
そういえば、もう気にする必要はないかもしれないが……という言葉を接頭に置きながらも、あの出来事の後にルチアーノからコゼットの癖を聞かされた。
何か言いたげではあったが気を遣って話しかけることを諦めていたときの声色、伸ばそうとして遠慮がちに引っ込めていた手。自分と同じく人と接する職業を生業にしている分、その観察眼は大したものである。加えて、ああ見えて気遣い屋な彼の性格が、娘の行動をより詳しく見てくれていたのだろう。
近くにいながらも気づいてあげられていなかった、という後悔の念が苦い表情となり滲み出ていたのか……力強く背中を数度叩かれたことは、痛みと共に記憶に残っている。本当、お前とコゼットちゃんは似ているな! と笑いながら強引に肩を組まれ、この話題は締めくくられた。
何かあったら力になるからな、と最後に掛けられた言葉は頼もしく、隣を歩く友人には感謝してもしたりない。……本当に、私には過ぎた友人だ。
少しばかり思案にふけっていた脳内は突如耳に届いた大きな溜息により、一気に現実へと引き戻された。
「まあ……こうやって早く帰れたとしても家に一人っていうのは寂しいもんだよなー……。ああ、早く俺にも素敵なお嫁さんが欲しいぜ~……」
「何かと思えばまたそれか……。お前の場合、まずは自分自身で身の回りのことが管理できるようになるべきだろう」
しばしば目にする彼の家の惨状を思い返す限り、当人の生活能力の改善が最優先事項にあたるのでは。寮生時代に目にしていた光景と変化がないようで、毎度のことながら訪問する度に在りし日の既視感を覚える。
うっ、と短いうめき声を上げ、言葉を詰まらせた友人に視線を向けると、肩を落としいつもの如く乾いた笑みを浮かべていた。
「相変わらずキツイなー、ジャントール……。ま、夕食に関してはお前の家に行けば大丈夫だけど!」
憂いを吹き飛ばすかのように大きく胸を張り威勢よく返してきた言葉に、今度はこちらが肩を落とすことになるとは思わなかった。
「……そういう考えが余計に遠退いている原因になっている気がするがな……」
やっとの思いで絞り出した心中の助言は、残念ながら目の前の友人には届いていないようで。今夜の我が家の食事についてあれやこれやと思いを巡らせている彼に気づかれないよう、自身の呼吸に合わせて小さく長い溜息を吐きだした。
分岐する道の袂で、また夜に行くからな! と手を振りながら大声で告げられ、こちらも同じように手を振り返し、それぞれの家路へと歩き始める。
あいつが来るのならば、夕食はもう少し品数を用意しておこう。今日は賑やかな夕食になりそうだ。
真鍮のアーチを潜り抜けた先の扉で同じ色の鍵を差し込み、時計の針が進む方向にくるりと回す。玄関のドアを押し開け、首元に掛けていた仕事用の装具をぱさりと取り外すと玄関脇のフックへ吊るし、廊下の先へと進んだ。
軽く着替えを済ませ、平日の昼間に自宅で過ごすのは久しぶりだな、とぼんやり考えながら書斎の入り口へと足を運ぶ。
自分が思い描く空想の世界を創るため、幼い頃から絵を描くことや絵本を作ることが好きだった。昔作った絵本が何冊か相次いで見つかったことをきっかけに、書斎の一角にスクウィークの冒険譚を陳列した棚を作り上げたのは最近のことだ。娘はこの区画でお目当ての物語を探し出すことが専ら好きなようで、普段の時間に仕事から帰った時には、こちらに気づかず夢中になって読みふけっている姿をよく目にする。
ページを捲る指が弾み、目を輝かせて熱心に読む姿は……幼い頃の自分にも、そして――今は亡き彼女にも似ている。
この時間ならば、まだ学校から帰っていないだろう。
念のため軽くノックを鳴らして扉を開けたものの予想通り娘の姿はなく、静寂の中で綺麗に整列した本の背がこちらを向いているだけであった。
昨日の湖の話なら、絵本として作りあげたことは覚えている。本の在り処に目星を付け、棚に並ぶ背表紙を目で追う作業に移った。
コゼットのことだ。今日帰ってきたら真っ先にあの本を探し始めるだろう。彼女が帰ってくるまでにはまだ時間に余裕もあるため、先に見つけておき机の上に用意しておこうと考えた。
「確かこの辺りだったか……」
絵本を作り始めた当初は背表紙を飾り付けることなど頭になかったため、いくつかの本は取り出してみなければ内容が把握できない。地道な作業ではあるが、本棚の上から一冊ずつ取り出しては簡単に目を通す。ぱらぱらとページを捲る度に、年代を帯びた紙の匂いが辺りに漂った。この香りは嫌いではない。
幼い頃からこの匂いに触れる度に、まるで自分が本の中の世界に入り込んでしまったようだ、と感じていた。紙の匂いと共に遥か昔に描いた拙いページが目に映り込み、当時の情景や制作中のエピソードを思い出して、ふと笑みがこぼれてしまう。
目的の本も無事見つかり、ついでにと数冊の本を流し読み終えたところで、他の絵本と比べて一際古い装丁の絵本が目に入った。おもむろに取り出し最初のページを開いてみる。この絵本は思い出深いものだ……少しずつページを捲りながらじっくり眺めていると一枚の小さな紙が絵本の間から滑り落ち、ひらひらと波打ちながら宙を舞った。とっさに片手を伸ばし、地に落ちる寸前でかすめ取ることに成功する。
……栞だ。これもまた絵本のように年月を経て少し色あせてしまっているが、赤橙色の木の実の欠片と薄紅色の花々が手の平に収まるサイズの長方形の枠の中で、万遍なく散りばめられている。
彩り鮮やかなこの栞は彼女との思い出の一つ。自身にとって忘れられない記憶を久方ぶりに呼び起こされ、驚嘆の声が思わず口から漏れ出た。
「これは……あの時の……」
* * * * *
初めて彼女の屋敷に訪れたのは、いつのことだっただろう。
母がいなくなってからは話す機会を失い、父には厭われた空想癖を受け入れてくれた唯一の存在で。エレオノールに会う度に、僕はいくらでも夢を見ることができた。
空想世界の物語をせがまれては敏腕ネズミである相棒との冒険譚を語り、時には彼女を模したキャラクターが登場するお話を考えて。そんな僕の隣で、彼女はいつも満足げに微笑みながら楽しそうに聞いてくれた。
しばしば屋敷を訪れるようになってからは、語った空想話の一部を絵本として形作っては贈っていた。体が弱く屋敷からあまり出られない彼女の気晴らしになればと始めたのだが、こちらが予想していた以上に喜んでもらえたことが次への意欲となり、ほぼ定期的に続けている。
幾つかの絵本を渡すようになってから暫くして、そのお礼に……と庭で見つけた花や葉を綺麗にあしらった栞を彼女から貰うようになった。
形こそ違うが、世の恋人たちが行う文通のようなものだったのだろう。
そうした日々を過ごすうちに、彼女への想いを胸に抱いたのは自然の流れだったと思う。
自分の人生を彼女と共に過ごしたい。
募る想いを心の内に秘め続け、いざ気持ちを伝えなければ…と計画を立て始めたとき、一つ直面した問題があった。
……どのように、プロポーズをすれば良いのだろうか。
絵本の題材にするならば考えるのは容易いが、現実だと物語のようにそう上手くはいかないことは自身でも容易に想像がつく。何しろ不器用な性分の手前、面と向かって言葉だけで伝える、という行為はあまり得意ではない。感情を表に出すことも不得手でしばしば愛想がないと噂され、時には誤解を生むこともあった。
散々悩み抜き、考え出した結論は……。言葉のみで伝えるのが難しいのならば、何か別の手段を考えるべきだ、ということだった。
自分なりにできることで彼女に気持ちを伝えよう……という視点に変わってみれば話は早く、程なくして最良の方法に辿りついた。
とびっきりの仕掛けを施した絵本を作り、彼女に贈ろう……と。
蔦が彩る青漆色の門の鐘を鳴らし、来訪の合図を響かせる。顔を合わせただけでこちらの要件が即座に把握される間柄となっている使用人の数歩後ろをついて歩き、群青色の大きな扉の前まで通された。案内の礼を述べ、使用人が踵を返したところで扉の前でノックを軽く三度叩く。返事が聞こえたことを確認してから、一呼吸置いた後で部屋へ足を踏み入れた。
大小様々な花が彩りよく生けられた花瓶の傍。揺りかごのような椅子に腰かけ、最愛の想い人は柔和な笑みを浮かべながらこちらを見つめていた。彼女の方へ近付き、いつものように挨拶を交わす。
「こんにちは、エレオノール。……体調は?」
「こんにちは、ジャン。今日はとても調子が良いの。天気も良いし、このままお出かけしたい気分よ」
そう答える彼女の顔色は明るく、返事の通り良好なように窺える。雪のように白い肌は少しばかり赤みを帯び、加えて声の調子もよいことからも明確に伝わってきた。
もし彼女の体調が良くなかった場合は日を改めようと考えていた手前、今日実行しても問題なさそうだという点に、胸中でほっと安堵の息を吐いた。
「今日の贈り物だが……どうだろうか?」
手提げの紙袋の中から大きな音を立てつつ絵本を取り出すと、彼女の前に差し出した。普段のものに比べて紙の厚さと重みがある渾身の作品だ……大きく広げた彼女の両手に負担がかからないよう、極力そっと乗せるように渡す。
「まあ! 今日の絵本は随分と大きいのね!」
彼女は嬉々として受け取った絵本の表紙を一通り眺めると、それを抱えたまま立ち上がり、足早に窓の方へ近付いた。淡く色の付いたガラスを半分ほど開けて外を覗き、きょろきょろと景色を見渡した後こちらへ向き直る。弾む声で質問を投げかけられた。
「わたしだけ楽しむのも勿体ないわ。今日は庭で読んでも良いかしら?」
先ほどの行動に加えて遊び心を含んだ満面の笑み……悪戯っ子のような声音で問いかけられ、瞬時に彼女の意図を理解する。
「……成る程。木や花たちにも一緒に聞いてもらいたいんだね」
「ええ、正解よ。ジャンの素敵なお話を聞いたら、途端に大きな花や木の実を付けたりして……みんなもすくすく成長してくれると思うわ」
沢山の物語を共有するうちに、彼女にも空想の世界での考え方がうつってしまったらしい。時折行う言葉遊びのような会話ももう慣れたものだ。
お互い視線を交わし、くすりと笑みを浮かべ合うと屋敷自慢の庭へ向かうこととした。
地下国家であり目にする機会は滅多にないものの、屋敷の庭の一角には鮮やかな花々が並んでいる。手入れの行き届いた花壇には光の絨毯が敷かれたように、光を吸収して淡く輝く花弁たちが空へ向かって精一杯体を伸ばしていた。
枝葉の茂った木々が大きな陰を作るベンチに二人で腰掛ける。エレオノールは一呼吸おき、自身の膝の上に本の世界を広げていった。
「今回はどんな冒険なのかしら……」
ページを捲る度にころころと朗らかに変わる表情を隣で見ているだけでも、満たされるような感覚が心の中に溜まっていく。……いくら見ていても飽きない。
絵本の世界を存分に楽しむ彼女をすぐ傍で眺めながら、この後行う一世一代の告白に逸る鼓動を努めて抑えつつ、物語が無事に幕を閉じるのを静かに待っていた。
「……。ジャン、ありがとう! とっても素敵なお話だったわ!」
「楽しんでもらえたようで良かった。また本が完成したら持ってくるよ」
「ふふ、次のお話も楽しみに待っているわね。……あら?」
最後のページを開き、本を持つ彼女がきょとんとした声を上げる。物語は確かに終わったはずなのに、ページがまだ続いていることに気付いたようだ。
捲ってごらん、とできるだけ普段通りの声色で話しかける。とはいえ内心緊張しているため、少しばかり声が震えてしまったが……どうやら相手には気づかれていないようだ。
彼女の指が絵本の中の世界を次の景色へと変えていく。ページが開くにつれて紙の擦れる音を小刻みに立てながら、幾重もの紙を組み合わせた仕掛けが徐々にせり上がった。
そこには。見開きいっぱいに飛び出すような立体構造を施した、特別な装丁のページが顔を覗かせていた。
背景には満点の星空と大きな古城……前へと大きく飛び出したバルコニーでは向かい合って相手を見つめている王女様と王子様。そして、中心にはお馴染みの相棒――スクウィークが両腕を大きく上げて光る輪を掲げている。彼が仰々しく掲げていたものを手に取り、本を支えていた彼女の左手を掬い上げると、そっと薬指へ通した。
蔦と葉を模した白銀の装飾が同じ色の輪をぐるりと囲み、真ん中に淡い薄桃色の石が鎮座している。太陽の光のもとで、それはきらきらと眩い輝きを放っていた。シンプルなデザインだが、彼女によく似合っている。
絵本に添えるための指輪を探しに行った際、店の中で真っ先に目を惹かれたのが真ん中で煌めく宝石だった。検討を重ね、いくつも見比べてはあれこれ考えたものの……一際光って見えたそれが脳裏に焼き付いて離れず。一見淡い光に見えるが放つ光は煌々としており、一度見てしまうと引力のように視線を奪われてしまう。彼女の瞳に似た色を呈していることも後押しして、この石を用いることに決めたのだ。
「ジャン……これは」
普段の絵本の贈り物とは違う雰囲気に戸惑う彼女の言葉を遮り、鮮やかな撫子色の瞳を見つめて熟考を重ねてきた言葉を紡ぐ。
「輝石のかがやきには及ばないかもしれないけれど、君に受け取ってほしい」
風で木の葉が大きくざわめく音と共に自分の鼓動が耳元まで届き、痛いほどに激しく叩いている音が脳内で鳴り響く。
声が震えることも構わず、出来るだけ大きな声ではっきりと告げた。
「エレオノール……これから先もずっと、僕と共にいてくれないだろうか」
やっと伝えられたという達成感が、強張らせていた体の緊張をじわじわと解いていく。正面に佇む彼女は私の顔と指輪を交互に見比べた後、少し俯いて一言も発しないまま肩を小さく震わせ始めた。彼女の手を支えたまま、目の前の様子を慎重に窺う。この状態からどうしていいか分からず、彼女の顔を恐る恐る覗き込んだ。
……見開いた目から止めどなく、大粒の雫が流れ落ちている。
まさか、泣いてしまうなんて思ってもいなかった。想定していなかった展開に動揺を隠せず、盛大に狼狽えた情けない声を出してしまう。
「エ、エレオノール……!? どうした、どこか痛いのか!? それとも……」
もしかして、泣くほど嫌だったのだろうか……と、悲観的な思考に足を踏み入れかけたところで、嗚咽混じりのか細い声が耳に届いた。
「……ちがうのよ、ジャン……。とっても、嬉しいの……」
彼女が落ち着くまで少し時間をおき、改めて穏やかな声で彼女に問いかけた。
「返事を……聞いても良いだろうか……?」
頬を伝う涙を指で拭いながらゆっくりと首を縦に一度振り、微笑んだ彼女の姿を今でも鮮明に思い出す。きっと私の命が終わるその時まで、この情景を忘れることはないだろう。
それから数日後。彼女の部屋を訪れたときに机の上で目にしたのは、赤と桃色を基調にした栞だった。縁には銀のリボンが巻かれ、派手過ぎず均整のとれた印象を受ける。
「あなたから貰った指輪が嬉しくて、同じような柄にしてみたの。……ちなみにあの日に咲いていた花びらも交じっているのよ。どうかしら?」
どこかで見たような色合いだと感じたが……成る程、指輪のデザインに合わせていたのか。……それほどまで喜んでもらえるとは、悩みに悩んで選んだ甲斐があったというものだ。
「今回も……見事な栞だ」
「ふふ、嬉しい。折角だからもっと近くで見てほしいわ」
そう促されて栞に伸ばした掌は、目的のものに触れる前に彼女の両手で包みこまれた。左手の指にはあれから片時も外していないと聞いた――輝く銀の指輪が目に留まり、触れられている個所と自身の頬が一気に熱くなったことを感じとる。
思わず縋るような目で彼女を見つめると、目を細めて嬉しそうに微笑まれた。
「ジャン、ありがとう。……わたしはあなたと出会って、たくさんの素敵な物語と思い出を受け取ったわ」
穏やかな口調で彼女は続ける。
「わたしもあなたに貰ったものを少しでも返したくて、栞を作ることを始めたの。……これからも、受け取ってもらえるかしら……?」
……その答えは、考えずとも決まっている。
「もちろんだよ、エレオノール……」
返事を伝えた後、彼女の手から差し出された栞を受け取り、そのまま彼女を優しく抱きしめた。
それから紆余曲折あったものの、念願叶って彼女と共に過ごす日々が始まった。新たな生活はとても楽しく、妻が同じ空間にいるだけで何もかもが輝いていて、幸せで。
ずっとこんな日々が続くのだと、そう信じてやまなかった。
新たな家族ができると聞いた時は嬉しさと同時に幾ばくかの不安も心中をかすめたが、大丈夫よと微笑む彼女を前に、それ以上は深く聞くことができなかった。
結果的に……娘の命と引き換えに、彼女は旅立ってしまって。
せめて心だけは傍にいようと、輝石を砕くことなど微塵も考えず――輝石に宿った彼女と共にいることが幸せなのだと、そう決めつけて過ごしていた。
* * * * *
暗闇の中で眠ることになった妻が寂しくないように、プロポーズに贈った絵本は彼女の傍らに添えていった。受け取った栞はまとめて仕舞っていたはずだったが……あの栞だけは、いくら探しても見つからなかった。もしかすると贈った絵本に挟んでしまったのだろうかと思案に暮れていたのだが、実際は違ったようだ。
栞が挟まっていた絵本は、彼女と出会ってから初めて話した物語。スクウィークと王子様が出会った始まりのお話。
物語を話した時期も栞を受け取った時期も全く異なる本に挟んであったなんて、こんなことがあるだろうか。
……となると、考えられるのは……。
逸る気持ちを出来る限り抑えつつ栞を裏返すと、薄く書かれた小さな文字が目に留まった。
【ときどきで良いから、思い出してちょうだいね】
……やはり、これは彼女からのメッセージだったのか。
自分がいなくなった後にも、少しでも思いを馳せられるように。ところどころに自分の想い出を散りばめて、在りし日の記憶を忘れないでいられるように。
自分以外の者には悟られないように、もしかすると遠い場所へ旅立つかもしれないことを覚悟して……私と娘のために、話題となるきっかけを遺しておいてくれたのか。
「全く……君には敵わないな……」
少しばかり熱を帯びた目頭を誤魔化すように、くしゃりと大きく頭を掻いた。
書斎の机の右端――コゼットが絵本を読むときの定位置に、昨晩語った絵本を並べておく。続けて物語の最後のページを開き、数年ぶりに日の目を浴びた栞をそっと挟んだ。
この場所に置いておけば、きっと今宵の話題に上るだろう。
他の栞も用意しておこうかと収納している棚に視線を向けたところで、玄関の方から扉の軋む音が聞こえた。……彼女の帰宅までに、間一髪で準備が間に合ったらしい。
妻から貰った贈り物たちを取り出すのは後回しにして、まずは娘を出迎えるため書斎を後にすることにした。
彼女とは遠く離れてしまったけれど、きっと深い微睡みの中で私たちと同じ夢を見ているのだろう。久方ぶりにあの不思議な街で会って、そう話してくれたように。
「エレオノール……今夜の夢も君に届くよう、願っているよ」
足早に玄関へと向かう途中……彼女とお揃いで作ったベルが、遠くで微かに響く音が聞こえたような気がした。
了
死者の国1St親子が大好き過ぎて、過去妄想が捗った産物でした。ジャントールは幼少期は僕、現在は私と使い分けてるイメージです。
とりあえず、皆幸せになってほしい。