Halloween Alice 本編
2 帽子屋
幸せの定義が何なのか、はっきりとは分からないけれど……【世の中皆が幸せだ】なんて、そんな日和見主義はくそ食らえだ。……だって、日々不幸を感じているあたしがここに存在しているのだから。
現状を嘆くだけなら誰にでもできる……でも、あたしはそんな性分じゃない。
呪いを授かったあの日から、絶対に抗い続けてやると心に誓ったのだ。
数時間ほど続くこの道にも飽きてきたけど、途中で投げ出す訳にはいかない。どこに視線を走らせても、辺り一面鬱蒼と茂る森の中。草と木と湿気に囲まれた、何の代わり映えのない景色の中で……せめて気持ちの陰鬱さを少しでも吹き飛ばそうと、両手を組んで天を仰ぎながら大きく背伸びを繰り返した。
古びた赤煉瓦が細長い絨毯のように敷き詰められた街道は、あまり使われていないためか半ば獣道と化していて、数歩動く度に蔦や枯れ草が足に引っかかる。その度に身を屈めて払いのけるのも煩わしく感じているけれど、どうにも魔術が使えない地域のようで……。簡単な風の操作どころか、得意な浮遊の術すら発動させることができない。こういった現象は上位の階級を有する者が存在する地ではよくあることらしく、おそらく何者かの魔力の影響を受けているんだろう。……まあ、今回の目的はその”何者か”なんだけどね。
絡み合う細枝たちとの格闘を続けながら道なりに歩を進めていくと、先が二手に伸びる分かれ道が視界に入ってきた。始点にあるちょうど良い大きさの切り株にすとんと腰を下ろし、つま先をぴんと伸ばして少しだけ休息をとることにした。
エプロンドレスの裾にあちこち付いていた小さな枯れ草を摘み取った後、旋毛の後ろで結んでいる大きめのリボンをくしゃりと手で鋤いてみる。……ここにも葉っぱが付いていたようで、指の隙間にかさりとした手触りが感じられた。
軽く身支度を整えたところで、肩掛け鞄から自身の膝の上へ、いくつかの食料を取り出す。林檎を模した臙脂色のガラス瓶は保温性に優れていて、両手で握り込むとほのかに中身の熱が伝わってきた。そのまま上部のコルク栓を引き抜いて紅茶を一口含んだ後、蝋引き糸を解いて薄茶色の包み紙を慎重に広げる。仕事の報酬として貰ったクッキーだ。空気にさらした途端ふわりと漂うバニラの芳香に食欲を刺激され、すかさずナッツ入りのものに手を伸ばした……が、しまったと感じた頃には時すでに遅く、甘い香りを放っていたそれは指先が触れた瞬間、さらさらとした塩へと変貌を遂げてしまった。 五日前までの感覚で軽率に触ってしまった……毎度の事ながら、厄介な体質に頭を抱えてしまいたくなる。膝の上のお菓子たちにこれ以上被害が広がらないよう、包み紙を元の形に仕舞いこみ、代わりに硬めに焼いたパンを千切って口の中へと放り込んだ。甘さの代わりに香ばしい小麦の香りと塩気をしっかり味わった後……本日何度目かのため息を静かに吐き出したのだった。
あたしの名前はアリス・リーヴァレッタ。
この世界は人間と魔族が共存していて――【階級】と【呪い】という特有の制度がある。階級に関しては上の方の序列に位置しているし、あたしにとってはそれほど気にすることじゃない。問題は呪いの方なのだ……。
あたしの呪いは確定型、【自分が触れたお菓子が全て塩に変わる】って体質で。
運命が大きく動いた日は……忘れもしない十歳の誕生日。世界中の誰もが冥王から届いた祝福の手紙を読むことで、自分の呪いが発動するようになる日だ。人生の中で大切な日だってのは勿論理解してたけど……当日のあたしは呪いの内容よりも、誕生日ケーキの方がずっとずっと楽しみだった。
何しろお菓子はあたしの大好物。物心ついた頃から欲しいとねだるものは第一にお菓子で――目の前に知的好奇心をくすぐられるような玩具や興味深い絵本などを山ほど並べられても、真っ先にお菓子を手に取る性格だった。ケーキのような王道なスイーツに始まり、クッキーやマフィンなどの香ばしい焼き菓子、ゼリーやアイスといった冷たくさっぱりとしたデザート……お菓子は種類を問わず、十八歳を迎えた今でも一番大好きな存在だ。
そんなわけで冥王からの手紙だって、フォーク片手に開きながら待ちきれなかった誕生日ケーキをめいっぱい頬張ったんだっけ。その瞬間――口に入れたはずの甘いクリームやふわふわのスポンジはしょっぱい塩へと変わり、断末魔に近い叫び声を上げたことは今でも鮮明に覚えている。急いで水場に走り出し、口内を勢いよく洗い流しながら一心不乱に記された文字を目で追った。呪いの内容が示された箇所を読み進めるにつれて顔色が蝋のごとく青ざめていく様子は、さながら死刑宣告を受けた被告人のようだった……と、両親から何度も聞かされたものだった。
……斯くしてあたしは、一人では大好物に触れることすらできない身となってしまって。呪いを授かってから八年間……本当に、本当に苦労を重ねてきたのだ。
ただ、それでも救済措置はある。誰かと【契約】を交わせばいいのだ。そうすることで、限られた範囲の中でなら呪いが発動しなくなるんだけど……三つの定められた条件をクリアする必要がある。
一つ目は、契約は一対一での取り交わしであり、重複契約はできないこと。この条件から契約相手のことをパートナー、なんて称したりもする。
二つ目は、契約できる相手は階級が同じか前後であること。魔力のキャパシティに差があると、上手く契約できないのだとか。なお、保有する魔力の多い方が契約の主導権を持つ決まりで、契約続行も破棄もそちらの采配次第で実行できる。ちなみに――あたしは恵まれた魔力のおかげで、生まれてこの方主導権を握る側しか経験したことがない。先日も元パートナーとの性格の不一致により、こちらから契約解除を実行してきたばかりだ。 そして三つ目は、契約者ごとに呪いが発動しなくなる範囲――通称、有効距離が違うこと。距離の長さは実際に契約してみないと判別できないため、博打要素が強くて非常に頭を悩ませるのよね……。
さらに加えて、幼い頃は周囲にも契約できる相手が多くいたんだけど。成長するにつれて着々と階級が上がり、現在は白のクイーン。こうも階級が高くなってしまうと、ほんの一握りの人間か一癖も二癖もある魔族くらいしか契約可能な対象者がいなくて。選り好みできないようになってしまった。
それからというもの……魔女という肩書で魔術関係の仕事を受けつつ生計を立てている傍ら、有効距離の長いパートナーを求めて色んな土地を探索している。大好物を気兼ねなく味わえる日々を取り戻すため……相手に対して妥協はしたくない。いくらパートナーといえどもお互いの生活空間は大事にしたいし、有効距離は長いに越したことはないってのがあたしの見解だ。
「あいつが言ってた情報は確か――魔族地域に住む漆黒を身に纏った魔族、だったっけ? 毎度毎度、肝心なところは抽象的なんだから……」
魔族地域ってのは名称の通り、魔族のみが生活している地域のことで。階級の高い魔族が一定数住み着いている反面……気性が荒い者や癖の強い者、中には人間に害意を持っている者なんかも多くいる。法律で禁じられてはいないものの、本来は人間が立ち入ることを推奨されていない土地だ。
あたしは仕事柄、魔族地域に来るのは初めてじゃないけど――今回の目的地は結構奥の方だし。同行者もなく単身で乗り込んだのは、他人を巻き込むリスクの高さも理由の一つなのと……求めるものが高いならば、相応の危険を乗り越えることと立ち向かうための努力が必要となることを、今までの経験で十分理解しているからだ。
一応、それなりに信用できる筋から得た情報だから内容に間違いはないはず……ただ、あいつは信頼しているとは全くもって言いがたい奴だけど。情報の有益性と提供者の人柄は別物だと脳内で言い聞かせながらも、対面したテーブルの向こう側で浮かべていたニヤニヤとした相手の笑みと機嫌良く左右に動く細長い尻尾を思い出し、無性に腹が立った。
聞いた情報を元にレンガが彩る小道を黙々と抜けていくと、やっと森の終点へ辿り着いた。視界の先が急に明瞭になり、明かりの差に目を慣らすため何度か瞬きを繰り返す。
森へ入る前に真上で輝いていた太陽はとうの昔に沈んだようで、代わりに満ちた月が地上を穏やかに照らしていた。今日の月は欠けたところもなく、まさしく満月と称するにふさわしい姿を呈している。地面に真っすぐ伸びた樹木の影を目で追いながら、首を動かして周囲の様子を見回した。
足元には背丈の低い草が整えられたように生えていて、樹木の下でゆったりと心地良さそうに揺れている。緩やかな傾斜がいくつかの小高い丘を形成する中で、この一角は墓地として使われているようだった。冥王信仰が主である魔族らしく、逆十字の墓標がびっしりと立ち並んでいる。
付近に人影や気配がないことを注意深く確認した後、中心に鎮座した大きな墓の前まで静かに足を進める。ぐるりと身体ごとその場で一回転し、眼下に広がる十字架の海をそのまま見渡した。月明かりが煌々と照らす中でいびつに伸びる無数の影は、これから遭遇するはずの相手との先行きを不気味に嘲笑しているように見えた。
事前に聞いていた通り、辺り一帯は街から離れた区域のようね。周りの草原から視線を外し、遠くの方まで目を凝らして眺めてみると、山間にぽつぽつと点在する住居らしき建物や漏れ出る明かりを微かに捉えることができた。
肉体的にも精神的にも蓄積された疲労感から、すぐ隣に据えてあった石造りのベンチにどっかりと座り込み、試しに付近一帯の地図を魔術で開いてみる。この丘は魔力の影響が小さいらしく、先ほどまでと変わって術を使用できるようになっていた。目印になりそうな地形と図面とを照らし合わせながら、受け取った情報の詳細をざっと読み返す。
「おかしいわね……この辺にいるって聞いてたはずなのに、誰もいないじゃない」
人気の少ない地域だし他の魔族に遭遇しなかったのは良かったけど、肝心の人物の姿形すら見当たらないのは想定外だ。情報提供人への恨み節を呪詛のように脳内で呟きながら、きょろきょろと視線を巡らせた先に目に留まったのは……墓場の端にぽつんと置いてあった、あたしの身体より二回りほど大きな黒い棺桶。月光に照らされて艶のある光沢を周囲に放ちながらも、墓地の片隅でひときわ目立っていた。
……ふと頭に浮かんだ可能性に、なるべく身を屈めながら棺の前へじりじりと近づいていく。硬質な黒い箱の側面にぴったりと張り付いたあと、両手で蓋の端を慎重に掴み……蝶番の向きを確認して棺を勢いよく開けてみた――が、期待に反して覗き込んだ内部は人の面影など微塵もなく、空っぽで。先程までこの場に広がっていた緊張感と子供じみた自分の行動との落差に思わず笑みをこぼしながら、独り言を呟いてしまう。
「なんてね……。となると、やっぱりこの情報、ガセだったのかしら……」
「これはこれは……随分と元気なお嬢さんですね」
突如背後から響いてきた声に、瞬時にその方向へ体ごと向き直る。数歩ほど離れた墓標の傍――月光を浴びて大きく影を映しながら、こちらを見据える一人の人物を……はっきりと視認することができた。
白銀の髪は肩にかからないほどの長さで切り揃えられ、月の光を受けて上品に煌めいていた。背中には大きな黒い翼を備え、礼服のような漆黒のスーツをきっちりと身に纏い、頭部には小ぶりの――これまた黒いシルクハットをちょこんと乗せている。見た目の年齢は二十代くらい……あたしより少し上、かしら。陰気漂う場所には似合わずにこりと穏和そうな笑みを浮かべていて、礼儀正しそうな好青年という雰囲気を纏っていた。仮に出会った場所が違っていたら、随分と印象が変わっていたに違いない。
物腰は柔らかそうな印象を受けるけど、それにも増して圧倒されそうな魔力をびりびりと肌に感じている。それに、情報と一致する真っ黒な格好と佇まい……おそらくこいつが例の魔族みたいね。確実に、食えない相手であることは間違いないわ。
気を引き締めて相手に対峙するよう、拳をぐっと握りしめる。
そんなあたしの身構えなど気に留めることもなく……目の前の男は変わらず、穏やかな笑みを口元に漂わせていた。
* * * * *
「こんな所までお一人で来られるとは何とも奇特な方ですね……この辺りに何か用事でもあるのですか?」
向こうからの丁寧な物言いと優しげな声色の問いかけに、僅かに警戒を緩めそうになったけど。先ほどの登場は全く気配を感じなかったし……おそらく空間移動の術によるものね。高等魔術を他人に気取られることなく使える辺り、事前の情報の通りただ者ではないことだけは確かだ。
目の前の相手にもこちらの警戒姿勢が伝わっているようで……数歩分空いた距離を詰められることもなく、奇妙な間隔をとったまま会話を続ける。
「まーね。単刀直入に言うわ……あんた階級高いでしょ? あたしと契約してほしいの」
「確かに階級については否定しませんが……急なお話ですし、すぐには返答いたしかねます」
成る程、お断りのパターンか。
相手側の返答は一応予想していた範疇のものだった。そりゃ、噂通りなら絶対一癖ありそうな魔族だもの。すんなり承諾とはいかないだろうし、過去の魔族との契約でも最初は断られることが多かったからショックは少ない。
この場合、何としてでも契約してもらうためには、こっちの手の内を見せるべきかしら……。確か、魔族は階級に関して実力主義をとっているはず。目を引く魔術でも披露して話し合った方が向こうの決断が早まるかもしれないし、単純に実力行使の方が手っ取り早そうな気もするわね。
そうと決めれば、試しに持ちかけてみるだけだ。
「ちなみに肯定以外の答えなら、力ずくで従えさせるわよ」
意思表示を兼ねて鞄に潜ませていた箒を手早く引き抜き、瞬時に元の大きさへと戻した。この子はあたしの相棒であり、れっきとした仕事道具だ。両手でしっかりと持ち構え、少しずつ相手との距離を縮めていく。
青年はこちらの様子を静観していたかと思うと、顎に手を当てて少しばかり考えるような仕草をとった。
「武力で解決するのは好きではないのですが……仕方ありませんね。その結果で納得してくださるというのならば、受けましょう」
全く眼中にないとでも言うような口ぶりで……あたしのことを軽視した返答に、一瞬にして頭に血が上るのを感じた。
「あたしが……あんたに負けるっての? 言ってくれるじゃない」
こんな読めない奴相手に、小手調べで様子を探る余裕なんかないことは分かっている。一気に叩くしかなさそうね。
箒の柄を握りしめ、穂先を時計回りに半回転させる。柄の端で地面を軽く叩き、魔術を紡いだ。自慢じゃないけど、風を操る術はあたしが最も得意とするものだ。そのままいくつかのつむじ風を起こし、徐々に成長させていく。あっという間に数メートル級の竜巻が五本、木々の葉を次々に撒き散らせながら周囲に立ち上った。ゆらりと箒を動かし、じわじわと相手をとり囲むように接近させていく。いくらこいつが手練れだろうと……これほどの暴風の群れを避けるのは至難の業だろう。
生み出した風の勢いに負けないよう、正面に向かって大きく声を張り上げる。
「どう? 降参するなら今のうちよ」
猛り狂う風たちを目の前にしても、青年はまだ涼やかな笑みでこちらを見つめ返していた。
「これはなかなか強烈ですね……ですが、こうすれば」
すっと流れるような仕草で、彼は右手を高く掲げた。そのまま迫りくる暴風の壁に遮られて一瞬姿が見えなくなったかと思うと……猛威を振るっていた竜巻の勢いが、たちまち全て鎮まっていく。
何で……!? あたし……術を解いてないのに!?
胸中に広がる動揺を悟られないよう、できるだけ平静を装いながら相手の動向を探る。
余波による風圧の隙間を、木々から吹き上げられた木の葉が穏やかに舞い落ちていく。ゆらゆらと降下するシルクハットを片手で優雅に受け止めながら、衝撃的な言葉を返された。
「同じ風圧だけぶつけてやれば、簡単に収まります」
「な……っ」
同じ風圧だけぶつける芸当なんて、そんなこと。
あたしの術に込められた魔力を瞬時に分析し、反対の風向きに仕立てた同等の竜巻を、全く同じ場所に発生させて勢いを相殺。
言葉で表すのは簡単でも実行するのは非常に難しいことを、目の前の青年はいともたやすくやってのけたのだ。
得意な風の術だとしても――同じ芸当をするのは今の実力じゃ、多分あたしでもできない。それなのに彼にはまだ余裕が感じられるということは……確実に、向こうの方が実力が上ってこと。
……こいつには、ここからどう足掻いてもおそらく勝てないわ……。
目の前で対峙する相手の適応力と異常なまでの強さを理解するとともに、少し遅れて頭から足の先まで、さっと血の気が引いていく感覚が伝わった。
「それでは、今度はこちらから参りましょうか」
静かに述べた青年の手が正面に伸ばされたかと思うと――圧縮された風の球が水平に伝わり、背面にそびえ立つ墓石の壁まで一瞬にして吹っ飛ばされた。とっさに衝撃を和らげる防御壁を張ったものの、完全には吸収しきれる訳もなく。
息が詰まり、次の動作が幾ばくか止まる。
仰向けに倒れた頭上の向こうに、取りこぼしてしまった相棒の穂先が見えた。すかさず手を伸ばしたけれど、その両手はひとまとめに押さえられ、自身の頭の上で拘束される。続けて、首筋にひやりとした何かがそっと押し当てられた。この状況下ならおそらく……刃物、ね……。
絶体絶命、ピンチな状況だってのは頭の中で十分理解している。……けれど、ここで情けなく命乞いをするような性格でもないってのは、自分でも痛いほどよく分かっていた。
自己責任という言葉の重みを強く噛みしめながら、せめて虚勢を張り、相手へ吐き捨てるように言葉を絞り出す。
「残念だけど、やられたわ……」
「攻撃を食らってはいませんが、さすがに敵意を向けられてしまってはむざむざと帰す訳にはいきません。……では、ここでお別れにしましょう」
その言葉を皮切りに……対峙してから初めて、彼の表情に変化があった。終始浮かべていた笑みがすうっと消え、両の目に鮮やかな色が宿る。吸い込まれるような深紅の瞳が背景に広がる青白い月とコントラストを描き出し、相手の一連の所作から目が離せなくなった。
暫くの間、互いに視線を合わせたまま、目の前の青年は静かに……そして確かに言葉を紡いだ。
「……さあ、血を提供していただきましょうか」
* * * * *
何を言い出したかと思えば。血が欲しい、とはどういうことなのよ……?
進退窮まりない状況にも関わらず、思わず素っ頓狂な声を漏らしてしまう。
「……はあ? 血の提供、なんて馬鹿なこと言ってんじゃないわよ」
あたしの発言を受けてか、相手の手元から自分の首筋へ僅かに振動が伝わった。
「おや……もしかしてあなた、まだ正気なんですか?」
先ほどまでの理路整然としていた奴にしては珍しく、前後の脈絡が繋がらない問答だ。窮地に面した状態なのは変わってないけれど、言葉の意図が読めないせいで青年をじっと見据えたまま、怪訝な表情を顔全体にありありと浮かべてしまう。
……正気か、なんて……何よこいつ、いきなり変なこと聞いてきて……。
相手の真意を推し量るべく脳裏で考えを巡らせている間に、首筋の凶器と両手の拘束がするりと解かれる。その流れで握られた両手を軸に、すとんと地上へ立たされた。
「気が変わりました。……お嬢さん、私と契約しませんか?」
「え……? あんた、契約する気になった、ってこと?」
先ほどまでの殺伐とした応酬から急展開すぎて、相手の態度の変化についていけない。
……どういう訳か全く分からないけど、契約を承諾してもらえたってこと?
「ええ。あなたの血を提供していただく代わりに、私はあなたの呪いの効果ができるだけ発動しないように協力します……いかがでしょう?」
「はあ、血ぃ? ……一体どういう訳よ?」
何を述べられたかと思えば、また血の話だ。先ほどから突如出てきた謎の交渉内容に、思い切り訝しげな声音で聞き返してしまう。 彼はシルクハットに付いていた小さな若葉を手で払いながら、流麗な口調で言葉を続けた。
「【魔女の血しか口にしてはいけない】、これが私の呪いの内容なもので。……ああ、血というのも個人的趣味などではなく、蝙蝠が祖先の魔族であるため。生きるために必要なものですので、ご理解いただけると幸いです」
返答を耳にして、目の前の青年が魔族だったことを再認識した。確か、魔族は祖先の身体的特徴や習性に影響を受けている者も多いのよね。蝙蝠だとしたら血が食糧ってのも納得……かしら。
あたしの考えを肯定するかのように、始終笑みを漂わせている口元から鋭く尖った八重歯がちらりと見えた。
「えーと。その割に……あんまり蝙蝠っぽくないわね」
話のキャッチボールを進めながらもまだ戸惑いを残している脳内の影響か、あまり関係ない部分のツッコミをつい口走ってしまう。
「もしかして、髪や目の色のことですか? 私、アルビノでして。生まれつき色素を持っていないんですよ」
アルビノか。話には聞いたことがあるけど、実際見るのは初めてね……。あの鮮やかな赤い目は、血液の色が見えてるんだったっけ。
半分心ここにあらずな思考のまま、生返事で相槌を打ち。いったん会話を止めて、青年に向かい合う形をとった。
当初の予定とは大分違う展開になったけど……結果的に願ってもない申し出だ。向こうの気が変わらないうちに話を進めないと。
相手の情報を先に聞き出した手前、気を取り直して自分の紹介も行うことにした。
「あんたの事情は何となく分かったわ。ちなみにあたしの呪いは確定型、【自分が触れたお菓子が全て塩に変わる】ってもの。これのせいで大好物に触れないし、手に入れるのも一苦労。昔っから本当に大変な目に合ってるんだから……」
できるだけ抑揚を抑えつつ説明したつもりだけど。こればかりは口にするだけで雷に打たれたようなショックが胸中に広がり、陰鬱な気持ちになってしまう。つられて道中錬成してしまった塩の塊を思い出して、大きく肩を落としてしまった。
相手はこちらの様子を静かに眺めながら、妙案が思い付いたとでも言わんばかりに両手をぽんと軽くたたく。
「成る程。もし宜しければ……お菓子については、僭越ながら私が作ったものを提供させていただきますよ」
そう言って彼は指を鳴らすと、一瞬にして大掛かりな設備が音もなく出現した。緻密で繊細な白のレース細工が敷かれた、絢爛豪華な黒のテーブルと椅子。ちょうど今煎れたばかりのような温かい紅茶に、数々の華やかなお菓子が鎮座した三段重ねのスイーツテーブル。 あまりにも場違いなほどの優雅なお茶会セットに、ここが屋外――しかも、墓地に隣接した場所だなんて頭から消え去ってしまいそうだ。
食べ損ねたクッキーの件もあり、思わず唾を飲み込んで見とれてしまう。
それよりも、驚きの発言なのは――。
「これ……全部、あんたが作ったの……?」
「ええ。まあ、趣味程度のものですが」
真偽を確認する使命感と周囲に漂う蠱惑的な甘い香りに、自然と足がテーブルの前へ引き寄せられる。机の縁に齧りつくようにしゃがみ込み、できるだけ目線を合わせて一つ一つじっくりと観察していく。……青々とした蔓と葡萄の実が描かれた皿に行儀よく乗せられたケーキたちは見た目も美しく、お菓子屋のショーケースに陳列されていても遜色ないほどの出来で。相手の多彩な製菓技術に驚きが隠せなかった。
「お口に合わなければお断りしてくださっても結構ですよ。……ああ、もちろん毒などは入っておりませんのでご安心を」
彼からの提案に、思わずごくりと生唾を飲み込む。
本来だったら毒とか関係なくすぐさま手に取って食べたい。……けれど、流石に見知った相手でもない奴の言い分なんて信用できないのと――何より、全力で食べようとした時点で目の前のテーブルには塩の塊が大量に練成され、小高い丘の上に見事な塩田が出来上がってしまう。
自分で味を確かめることができない以上、誰かを召喚するしかない。文字通り暫く頭を抱えながら悩み抜いたあと、召喚用の呪文を呟いて妖精型の使い魔を一人呼び出した。
後ろに立つ青年の興味深そうな視線を感じる中、椅子に腰掛けてスイーツテーブル上段に並ぶ渦巻き模様のクッキーを指さし、そのまま彼女の様子を窺う。軽い音と共に、ふわりと甘い香りが周囲に漂ったあと。頬をぱんぱんに膨らませながら一心不乱に齧りつく様子と満面の笑みで机の周りを飛び回る姿から、お菓子のクオリティが十分に伝わってきた。
折角だからと他のお菓子もいくつかお土産に促し、嬉しそうに羽をはためかせた彼女の帰りを見届けたあと、改めて提供主へ向き直る。
「こんな出来の良いもの出されちゃ仕方ないわね……。分かった、最初の目的通りあんたと契約するわ」
「かしこまりました。これからよろしくお願いいたします」
「あたしの名前はアリス・リーヴァレッタ。アリスで良いわよ」
「私はヴァーレンハイト・マッドハッターと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
互いに名乗り、軽く礼を返したところで。テーブルのお菓子が待ち遠しく佇んでいる中……挨拶もそこそこに、早速契約の準備に取りかかることにした。
緻密な文様の正円に六芒星が描かれた契約紙へそれぞれ署名を行い、お互い血を一滴ずつ落とす。契約紙に記された魔法陣が淡雪色の光を放ったと同時に、刻印済の契約紙がふわふわと宙に舞い踊った。
「……さてと、これで契約完了ね」
契約の作法自体は慣れているし、全く問題ない。次は……最も重要なことの確認だ。向かい合う青年を見上げながら、こちらの要望を遠慮がちに伝えることにした。
「あと、一つ確認しておきたいんだけど……」
「確認、ですか? ……ああ、契約者間の有効距離ですね」
非常に察しが良い相手で助かった。
「では、こちらをお持ちいただきましょう」
そう言って、彼は先ほどのスイーツテーブル下段からマフィンを一つ手に取り、あたしの掌にそっと乗せた。表面に散りばめられた艶のあるチョコチップが、ちょうど真上で輝いている夜空の星のように魅力的だ。そのまま掴んで食べたい衝動を必死に抑える……我慢よ我慢。 誘惑と葛藤する状態を維持したまま、ヴァーレンハイトが後ろに一歩ずつ離れていく。ちょうど五歩目を踏み終えたところで――手の上のマフィンが塩へと変貌を遂げた。
思いのほか短い有効距離に、本音が口から飛び出してしまった。
「……うっそ、こんだけ!? せいぜい三メートルくらいじゃない!」
「これは……有効距離としては短い方ですね。驚きました」
いくらお手製のお菓子が美味しかろうが、この距離の短さは看過できない。だってあたしの目標は、長い有効距離を持ち、お互いが平穏に過ごし合えるパートナーなのだから。
……そうと決まれば今回の相手もさっさと契約破棄して、一刻も早く次のパートナー候補を探さないと!
先ほどまでのスイーツな面影など微塵も残っていない塩の塊を地面へと投げ捨て、勢いよく相手に振り向き、眼前に人差し指を突きつける。
「あんたとの契約なんか破棄よ、破棄!」
指の先の青年はというと、あたしの剣幕など気に留めることもなさそうな表情だ。出会った当初と変わらないにこやかな笑みを浮かべたまま――おもむろに胸ポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
その紙には見覚えがある……先程、お互いの名前を記した契約紙だ。
「……忘れたのですか? あなたとの契約解除の権利は、私が握っているのですよ」
「うっ……」
そういえば。
契約を結んだ時に知ったんだけど、こいつの階級は黒のキング。契約の条件の一つ……契約解除の決定権は、魔力の高い方に委ねられるのだ。
そりゃー、魔力のキャパシティから違う相手に敵いっこないわね、なんて手続きを進めながらぼんやり考えてたけど。
契約の主導権を握れない……今まで何度も契約を結んできた中で、自分の思い通りにいかない相手なんて初めてだったのだ。
「約束は守っていただかなければなりませんね……。これからよろしくお願いしますね、アリス」
愛想の良い笑みを浮かべた青年の前で、その場に膝から崩れ落ちたくなる気持ちを何とか抑える。せめて抵抗するようにと、先ほどの椅子へ深く座り込み、首を背もたれに預けて天を仰いだ。夜空に光る星々の輝きが、何だかいつも以上に眩しく――そして空虚に感じられた。
……こうして。不本意な有効距離を持つ、新たなパートナーとの契約生活が始まることになったのだった。
そんな訳で、胡散臭い魔族の青年が新しいパートナーとなることに。しかし、肝心の有効距離は短く……アリスはどう行動を起こすのか……。