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Halloween Alice 本編

6 チェシャ猫

 パートナーが隠し持っていた考えに触れてから……あっと言う間に二か月が過ぎていった。
 以前の関係から変わったことと言えば、ヴァーレントの感情の機微が少しずつ読み取れるようになったこと。契約当初はお面を貼り付けているような同じ笑顔にしか見えてなかったけど、時々悪戯っぽい色が混ざっていたり、興味がなくて適当に受け流していたり。意外と表情豊かな面が垣間見えるようになったのは、進歩したのかもしれない。
 そして――同じように、パートナーにもあたしの挙動がしっかり観察されてるってこと。お茶会の中で好みのお菓子に巡り合った時……よっぽど顔に出ているのか、似たタイプのスイーツが何日か後に高確率で出現していることに気づいたのは最近の話だ。
 血を提供する代わりに、呪いの効果ができるだけ発動しないよう協力する。ヴァーレントにとっては快適なティータイムを提供することも、その条件の中に入っているようで。あいつはあいつなりに、約束を律儀に守ってくれている。

 ただし、残念なことに――有効距離に関する情報はさっぱり進展なし……。ついでに距離自体も全く変化がなく、五歩離れれば手の上のお菓子が塩へと錬成される状況なのは変わらない。時間が経過するにつれてパートナーとは徐々に良好な関係を築き始めている自覚があるだけに、一番の問題点が上手くいかないことに歯痒さを覚えている。
 このままずっと、大好物に対して数メートルしかない自由を享受するしかないのかしら……。
 思考の端によぎった考えが頭上に重苦しく圧しかかったような気がして、仕事場の作業台にぴたりと右頬を付ける。少し硬質でひんやりとした天板の温度が、じわじわと頬の表面に伝わってきた。

 ありがたいことに近頃は仕事も好調で、依頼対応に追われる毎日だ。有益な情報も手元にないことだし、そろそろ何かできる方法を考えないと……。
 ふと、自ら発した言葉を脳裏で反芻する。
 ……情報、という言葉に力を貸してくれそうな奴がいるのは分かっているのよ。正直あいつはできる限り奥の手で使いたいレベルだけど……そう言ってられない事態になってるわけだし。
 頭を抱えながら次に取るべき手段を試行錯誤した結果、今回ばかりは最終的に同じ結論に至ることとなり。面倒な未来が待ち構えていることを覚悟して、さらに重苦しくなった気分から……額に手を当てて、細長い息を吐き出した。
「……あまり使いたくない方法だけど、今回ばかりは仕方ないわね……」
 そのままゆっくりと立ち上がり、体を引きずるような気持ちで隣の扉へ足を進める。三度ノックした後、向こうの返事を待たずに扉をくぐり抜けた。調理に勤しんだ形跡が残るキッチンの中で、赤色のバスケットと黒色のトングを手に携えたパートナーは慣れた手つきで仕上げの作業を進めていた。先ほど焼き上がったばかりのビスケットを籠に移しているようで、部屋全体に甘く香ばしい匂いが漂っている。上着の代わりにシンプルな藍色のエプロンを身に着け、髪を後ろでひとまとめに括った姿は普段の印象とは全く違う装いで、いつ見ても新鮮な気分だ。
 近頃のヴァーレントは、あたしが調理中に足を踏み入れても何も言わなくなった。契約当初は作っている姿すら見せてくれなかったんだから、これも結構打ち解けてきてる証拠なのかもね。
 調理中に居合わせると食べたい気持ちが抑えられなくなるから、あえて立ち入らないようにしてるんだけど。やっぱり作り立ての雰囲気は格別で、一層お茶の時間が待ち遠しく感じる。
「アリス。……どうかしましたか」
 少し不思議そうな顔をして近寄ってきたパートナーは、何故かあたしの目の前にそっとバスケットを差し出してきた。……もしかして、お菓子の催促とでも誤解されたのかしら。
 扱いとしては正直不服だけど……籠いっぱいにきちんと詰められたビスケットたちに全く罪はない。これは――完成したこの子たちに対する、あたしなりの敬意なのよ。
 そう自分に言い聞かせながら……黄色のジャムがとろりと乗ったものを一つだけ摘み取り、さっと口へ放り込む。焼きたて特有の熱気と香ばしい匂い、甘酸っぱさをじっくり味わったあと、改めて要件を伝えることにした。
「……乗り気じゃないんだけど、厄介な場所に情報収集よ。少ししたら出かけましょうか」


 普段の格好へ着替えを済ませたパートナーを引き連れ、隣町まで出向いてきた。あたしの仕事場付近よりも雑多に店が立ち並ぶ繁華街沿いの脇道を、勧誘の声を避けるように少し早足で歩いていく。
 迷路のような裏路地を通り抜け、見知った二階建ての家屋の前で足を止めた。外に掛けられた小豆色の螺旋階段を登り、少し左に傾いた――紫色の怪しげな立て看板が添えられた扉のドアノブを、意を決して握り込む。右に二回、左に三回ぐるりと回転させた後、注意深く開いた先には――自然豊かな木々と、清らかな小川が流れる穏やかな光景が広がっていた。
 比較的安全なルートだったことに、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。今回はまともな道に繋がっていた方だ。扉を抜けたあと後ろへ振り返り、パートナーに小声で話しかけた。
「ここ、家主の気分で道が変わるのよね……。前に来たときは火山の近くで大変な目にあったわ」
「成る程……それは、アリスが手酷くやられるような場所だったんですか?」
 その質問にひらひらと右手を横に振り、説明を続ける。
「あー、違うわ。あたしはそんなに影響なかったけど、持ってたキャンディは包み紙の中で水飴みたいになるし、チョコがポケットの中で溶け出して散々だったってわけ……もちろん、後でちゃんと固め直しておいしくいただいたわよ」
 お菓子好きとしては、折角の好物を台無しにしてしまうのはやぶさかではない。
 あたしの返答を聞いたパートナーは、ふう、と軽く息を吐いていた。
「何というか……アリスらしいですね」
 簡素な台詞を述べた割に、やや嘲笑の意を含んだような笑みを浮かべていることにはっと気付いて。隣に並ぶ相手の左腕を、ぱしりと軽くはたいたのだった。

 太陽に向かって伸び伸びと育った樹木に、川の底石まではっきりと見える澄んだ水……景色の良い長閑な小道が延々と続く中、不意に相手から質問を投げかけられた。
「そろそろ、どこへ向かっているのか教えてくださいませんか」
 ヴァーレントの意見も当然のことだと思うけど……言葉にしたら瞬時に嗅ぎ付かれそうで、正直あまり話題に出したくない。でも、流石にここまで連れてきて説明しないってわけにもいかないわよね。
 心を落ち着けるため大きく深呼吸を繰り返し、覚悟を決めて答えることにした。
「この先には……元パートナーがいるわ。あんたと契約するちょうど前の、ね」

 小川の下流目掛けて足を進めていくと、ただっぴろい原っぱと透き通った湖が一面に広がる場所へたどり着いた。畔には自然あふれる景色に似つかわしくない――無機質な白いデスクが一つ。その場に姿の見えない相手を用心深く警戒しながら、じりじりと机の前まで近寄っていく。
 手前に置かれた飲みかけのマグカップから仄かに湯気が出ている辺り、おそらく相手が離席してからそれほど経過していないはず。コーヒーの香ばしい香りがふわりと立ち上る中、首を機敏に動かしながら周囲の様子をうかがったけど、家主の影も形も見当たらなかった。
 きっと途中であたしたちの来訪を察知して、こちらの反応を楽しみながら雲隠れしているのだろう。
「多分、そろそろ出てくる頃だと思うけど……」
 あたしの言葉を待っていたかのように、突然周囲の空間が歪む。続いて背後から誰かの気配がしたかと思うと……首の辺りに何かをぎゅっと回される感覚がした。
「アリスじゃん、久しぶりー! 自分から俺に会いに来るなんて、やっぱり可愛いとこもあるなー!」
「ちょっと、いきなり何すんのよ!」
 首元にある物体が相手の腕だと認識できたところで力いっぱい振りほどく。その勢いのまま、件の人物を風の術で少し遠くまで吹き飛ばした。
 空間の歪みが徐々に落ち着きを見せる中――風圧をまともに食らった相手は見事に草むらへ落下し、もうもうとした土埃が周囲に漂う。
「あなたの元パートナー……なんですよね……? 豪快に吹っ飛ばしましたけど」
 現パートナーからの涼しげな視線と物言いが若干ぐさりと刺さってる感はあるんだけど、これだけは自信をもって断言できる。

 ……あいつは起き上がった時、確実に満面の笑みだ。

* * * * *

 そうして思い切り飛ばされた当事者は、あたしの予想通りの表情を浮かべたまま……何事もなかったかのようにくるりと宙返りを見せて近寄ってきた。本気でこいつの神経回路、どうなってんのか解明してほしい。
 あたしの周りをちょろちょろと動き回り、賑やかしのようにわいわいと話しかけてくる。
「だーもう毎回ウザいっつてんでしょーが! いい加減にしないともっと遠くに吹っ飛ばすわよ」
「俺はどっちでもいいけどなー。アリスからなら大歓迎! ……おや?」
 どうやらようやく隣の存在に気づいたようで、一旦動きを止めてヴァーレントの方に向き直っていた。
「ああ、あんたがアリスの現パートナー?」
「はい。ヴァーレンハイト・マッドハッターと申します」
「俺はガット・チェシャ。アリスの元パートナーで、腕の良い情報屋やってるんだー。宜しくね☆」
 自己紹介の言葉とともに右手でピースサインを作り、胸を張りながら決め顔でばっちりポーズを見せつけてきた。
 祖先の名残が感じられる黒い猫耳は頭頂部で機嫌よく動き、細長い尻尾もゆらゆらと楽しげに揺れていて、今日の奴はすこぶる絶好調なようだった。クランベリーのような濃いピンク色の瞳は細められても目立つ配色だし、派手なチェック模様の服装も相まって……全身から胡散臭さが漂っている。熟したオレンジのように濃いメッシュ交じりの橙色の髪も、見るからに危険人物だということを示しているかのようだ。
 相変わらずの性格と騒がしいテンションに、早くも疲労が蓄積されるのを感じて大きくため息をついた。
「自分で腕が良いとか言わないでよね……。まあ、こいつの情報収集力は認めるわ。ただし、性格はとんでもなく変態よ」
 あたしの言葉を受けて、やれやれと言いたげなように、演技じみた仕草で肩をすくめる。
「変態だなんて人聞き悪いねー、アリス。俺は相手に対してSで接するかMで接するか判断してるだけなんだけど? ちなみにお兄さんにはM対応の方が良さそうな気がするなー。……どう、合ってる?」
 趣味志向を包み隠さず語ろうとする変人から、間髪入れずに言葉尻を奪い取る。
「あんた基準の話なんてどうでもいいわよ」
「まあまあ、嫉妬しないでよ。俺にとってアリスは別格だから、SでもMでもお望み通りに対応してあげるよ☆」
 あたしの塩対応や、分かるように込めた言葉の棘など何のその。寧ろ喜んでいるような反応で、ヘラヘラと笑いながらこちらにウインクをかましてくる始末だ。
 ……会話のキャッチボールが成り立たないこの感じ、久々すぎて早くも鳥肌が立ちそうだわ……。
「あー。ちなみに、お兄さんの情報を教えたのも俺だよー。この状況じゃ、上手く契約できたみたいで良かったじゃん」
 そう……ヴァーレントの情報は、こいつから手に入れたのだ。結果として有益な情報だったことには感謝してるけど、その後の出来事と問題点を思うと少し複雑な気分になる。一応情報を提供してもらった手前、現在の状況について軽く説明することにした。
「契約に関しては、ね。……有効距離が短すぎて、困ってるのよ。距離の長さで比べればまだあんたの方がマシだったわ……ずっと一緒に過ごすのは精神的に無理だったけど」
「俺との距離ってどのくらいだったっけー?」
「十メートル弱くらいはあったかしら。まあ、そんだけ距離が取れてても……あんたが勝手に店どころか街単位でフラフラ出かけるから、意味ないことの方が多かったわよ」

 ガットは祖先の性格を見事に受け継いでいるような――自由きままって言葉が服着て歩いてるような奴で。行き先を告げずにふらりと出かけたかと思うと数日帰ってこなかったり、妙にねちっこく絡んできて仕事の邪魔をしてきたり。お菓子を食べようとしたときに限って、その場から忽然と姿を消したりしたこともある。こいつの奇行に振り回されたせいで、テーブルの上が塩まみれになる日も少なからずあった。
 思い出される数々の悪行の一部だけでもこの有り様なんだから、契約が結べる貴重な相手だったけど……こいつとの共同生活は、流石のあたしでも手を焼いた。いくら恵まれた有効距離を持っていたとしても、極端な奴相手なら全く意味を成さない。……それもあって、次のパートナーは慎重に選ぼうって心に決めてたんだけど。運命とは上手くいかないものなのね……。
 今の状況を考えると、ヴァーレントとは正反対だわ。
 先ほどから傍観を決め込んでいるパートナーを、ちらりと横目で見た。こいつの相手はあたしに任せるという態度の現れなのか……笑顔の中に、目の前の変人に微塵も興味なさそうな色が滲み出ていた。積極的に対話に入り込まない辺り、ヴァーレントにとっても扱いに困るタイプっぽいわね。
 これ以上話してると目の前の変態だけが得する結果になってしまうし、さっさと用件だけ済ませないと。
「それで、お願いがあるのよ……契約の有効距離についての情報をちょうだい」
 これだけ短時間で精神的疲労を与えられた以上、せめて有効距離についての情報を提供してもらわないと割に合わない。ガットは腕を組んで小難しい表情を暫く見せたあと、両手で大きくバツ印を示してきた。
「うーん……ごめんなー、アリス。それは持ってないや。あと、一応言っとくけど。再契約してーってお願いもなしね」
「えっ、何でなのよ!?」
 急に予測もしていなかった発言を受け、思わず声が裏返った。
「知ってるだろー、魔族は階級至上主義だってことをさ。アリスよりも低い俺の階級じゃあ適う訳ないし、逆らうのは無理かなー。……それにしても黒のキングなんて本当珍しーよね、お兄さんも」
「まあ。こう見えて割と長生きしてますからね」
 呆気に取られて言葉が継げなかったあたしの様子から、用件がひと段落したと判断したのか。他愛のない世間話を交わし始めた二人の前で……机に両手をつき、がっくりとうなだれる。
 折角ここまでやって来たというのに。徒労に終わりそうな可能性が徐々に見えてきた。

* * * * *

 苛立ちが怒りの念に変わりそうな感情を胸中に抱えたまま……パートナーから宥められつつ提案されたこともあり、気分を落ち着けるために一息入れることになった。草原の上に用意された低い丸テーブルの前に、湖を眺めるような配置で各々座り込んだ。
 ガットから提供されたお菓子とコーヒーを口に運びながら、束の間のピクニック気分を味わっている。ちなみに興味本位で――コーヒーでも呪いの条件をクリアできるのかヴァーレントに尋ねてみると、ティーカップに入っていて誰かとテーブルを囲みながら飲み交わせば、種別はそれほど問わないらしく。意外と融通が利く内容のようで、心底羨ましい限りだ。
 あたしのために評判のお菓子屋で買ってきたのだと誇らしげに話していたカヌレは――外は香ばしくカリっとした食感に、中はもちもちとしていて嚙むごとにじわじわと蜜が染み出してくる。こんなに複雑な心境でも美味しく感じるんだから、流石有名店の商品だと密かに感心した。今度、買いに行ってみようかしら。
「全く、肝心なときに情報がないんだから……」
 恨みがましい視線を送ったところで、ガットはどこ吹く風だ。 寧ろご褒美とでも言わんばかりに、頬を搔きながら照れるような素振りで近寄ってきた。
「ごめんなーアリス……でも、俺はアリスをいじめるのも好きだけど、アリスにいじめられるのも好きだから問題ないよ?」
「げっ……気色悪いこと言わないでよこの変態!」
「そうやって褒めてくれるところも可愛いよねー☆」
「流石元パートナー、仲が宜しいですね」
「全く良くないわよ!!」
 ヴァーレントの視線は……気のせいか、冷ややかな色が混ざっていて。普段の通り微笑んでいるんだけど、微妙に違うのよ。感じる圧とかが……。

 ガットはあたしたちのやり取りを楽し気に眺めていたかと思うと、腕を頭の上で組み、大きく背伸びをしながらその場で一度宙返りをした。
「ま、折角アリスから会いに来てくれたんだし、代わりに良い情報教えてあげよっかな。ハートの女王、一週間後に暫く城での公務になるっぽいから、会いに行ってみたら?」
「そうなの? 女王様が……」
 一体何の情報かと思えば、ハートの女王様についてとは。
 前にリーブレからの依頼でお城へ訪問したときは、タイミングが合わずに対面することはできなかったけど。裁判長の話ぶりでも公務が多忙だと聞いていたし、あの一件の後も各地を忙しく飛び回っていると耳にしたこともある。
「女王様は立場上、いろんな地域のことを知ってるだろうし。俺以外の情報網も持ってた方が役に立つんじゃない? 別件の情報収集中にたまたま聞いたんだけど、今回は特別にサービスしとくよ☆」
 こうやって他の提示できる案件を持ち合わせているあたり、情報屋としての仕事の腕は立つのよね。普段からその有能さだけ表に出していれば、そこそこ頼もしい奴という認識ですむのに。
「それにしても女王様の城のことまで詳しいなんてね。あんた、行ったことでもあるの?」
 この前間近で見て気づいたんだけど、周りを覆う城壁は強固な防護魔術が何重にもかけられているし、警備用の装置も至るところに配置されていた。用事がない限り、簡単には立ち入れない場所なのだと理解した以上……この胡散臭い魔族の男が易々と入れるはずないんだけど。
「おっ、アリス冴えてるねー。正確に言うと、何度か侵入しようとして返り討ちにされてるって感じかなー。中の詳しい情報はあんまり持ってないから、何か知ってたら逆に教えてほしいけどねー」
 あっけらかんと笑い飛ばす姿に、どっと脱力感を与えられる。
 こいつ……既にやらかした後だったのね。女王様の城ですらこの扱いなんて、なかなか命知らずな行動をとっているわ……。

 ガットはおもむろに立ち上がると、背後に佇んでいたデスクの上をいそいそと片付け始めた。訝しげに眺めているこちらの様子もお構いなしに、店仕舞いを粛々と続けている。こういうところ、本当気分屋って感じよね……。
「とりあえず情報も渡したし、そろそろお開きかなー。……あ。最後に一つ、アリスに伝言っと」
 その言葉を述べたあと。胸の前でぱんと手を叩くと、座っていたあたしの首に正面からぐるりと腕をかけてきた。出会った時と同じくすかさず振りほどこうとした右手は器用に掴み取られ、小さな声で耳打ちをされる。
「お兄さん、手強そうだけど……もし契約破棄できたら、また協力してあげても良いよ?」
 素早く離れていった相手を思い切り睨みつけると――愉快でたまらないというような笑みを貼り付けた顔が視界に入り、余計に苛立った。
 相変わらずあたしの反応を見て楽しんでいる辺り、こいつも根元はヴァーレントに近い気質を持っているのかもしれない。こちらの意思はお構いなしで振り回されているような気分がして、自分の眉間に深い皺が刻まれたのを感じた。
「まー、今後もアリスへの協力は惜しまないつもりだし、俺はいつでも大歓迎さ☆ それじゃー、またご贔屓に!」
 最後の最後まで全力で場を引っかき回していった青年は……ムカつくほどに晴れやかな笑顔を浮かべたまま、一瞬にして周りの備品ごと跡形もなく消え去った。おそらく事務所の場所を移したのだろう。
 先ほどまでの喧騒が落ち着き、一気に場が静まり返る。一連のやり取りの中で始終ほとんど沈黙を決め込んでいたパートナーは、あたしの隣で静かに呟いた。
「……アリスが厄介な情報収集先だと話していた理由、よく分かりました」
「そーなのよ……だから、最初に言ってたでしょ……」
 面倒な相手を一心に引き受けていた苦労が伝わればと、これ見よがしに大きくため息をついた。

 ともかく。一応有益な情報が得られただけでも足を運んだ甲斐があったというものだ。一週間後が鍵となりそうね。
 来るべき日に備えて、今日のところはゆっくり休みたい。きっとベッドに倒れ込んだら瞬時にぐっすりと眠れそう……そんな精神的疲労感を抱えながら、あたしたちも清々しいほどに景色の良い湖畔の元を離れ。見慣れた仕事場へ戻ることにした。


 ガットはアリスのことを盲目的に気に入ってます。変態も書いてて楽しいキャラの一人。